人様に言えないちょっと変わった趣味、というものを皆様はお持ちだろうか。
筆者には、なかなか人に言えない趣味かつ時間つぶしかつ脳の刺激となる遊びがある。
それが、
「ひたすらWikipediaを読む」
というもの。
この遊びを通して、かつてインターネットに期待された役割、そしてそれが思うようにいかない現状、これからのインターネットに求められる物を筆者は何度も考えてきた。
きっと何を言っているか分からないと思う。
本稿では、インターネットに期待された偶然性とその具体例であるWikipediaを元に、現状のインターネットにはびこるフィルタリングがもたらした弊害、これから先のインターネットと一個人の付き合い方を探求していく。
皆様のインターネットライフの助けとなれば幸いだ。
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偶然性というポテンシャル
インターネット黎明期には、ネットは期待に溢れていた。
今まで物理的に繋がることが出来なかった人たちと繋がることが出来る、自分で色んなことを発信して物理的距離を排して届けることが出来る。
それは革新的な話であり、一般人に発信と受信の手段が開放されたことにより変革が訪れると考えられていたのだ。
そしてこの手の話はSNSが盛り上がったときにも同じ期待感があった。
自分が思いも寄らない情報にアクセスでき、知見が広がる。
自分の発信が予想外の所に届き、反響が返ってくる。
そんな繋がりが沢山出来るのでは無いかと。
Facebookがリアルでの繋がりを優先したのに対し、ツイッターは興味のある人をフォローして繋がるというコンセプトを打ち出したことも、その表れだと思う。
だが実際はどうか。
フォローフォロワーの関係になった人に気を遣ってこっそりミュートし。
互いになんとなく思っていることを垂れ流していく。
もちろんそれが狙いだし、趣味が合う人の独り言は見ていて楽しい。
自分も興味があればリプライを飛ばしてすぐ会話に入れる。
人との繋がりにおける、近すぎず遠すぎない距離感を実現したのがツイッターであり、日本人にドンピシャにハマったのだ。
だが筆者は時々感じることがある。
これはあくまでも実質的に閉じたコミュニケーションではないかと。
コミュニケーションに焦点を置いて考えればいいが、情報収集やネットサーフィンという意味合いでSNSを捉えたときに偶然性が失われているのではないか。
思い返せばmixiにおけるマイミクもそんな感じだったかも知れない。
ツイッターにそれを感じてしまうのはタイムラインという機能が故、他のSNSと違い一見ランダムな情報が入ってくるように思えるからだ。
確かにリツイートや「○○さんがいいねしました」という機能により多少のランダム性は提供される。
だがツイッターの基本的な機能として使っている以上訪れるのは、
「フォローする人次第でタイムラインの大まかなジャンルが決まる」
という状態だろう。
それを打開するには意図的にジャンルを越境してフォローする必要があり、ツイッターを利用していて感じる受動的な情報収集とはなかなか相性が良くない。
なぜ筆者はインターネットに偶然性を今なお求めているのか。
それは元々のインターネットの使用時に魅力を感じたからだ。
例えば「A」というワードについて検索するとき。
「A」だけで検索すれば一定の信頼がある分、幅のない安定した結果が表示される。
しかしそこに「A 反対」であるとか「A 未来」であるとか、多少の語句を付け足すことで大きく世界は広がりを見せる。
かの落合陽一は知らない分野の勉強法に関して「様々な角度から徹底的にググるだけで一定の知識を得ることが出来る」と述べている。
もちろん彼のワード選定のセンスも大いにあるだろうが、それだけインターネットには多角的かつ多様な情報と思考が散らばっている。
それを意図的に受け取ることは間違いなく人生を豊かにするはずだ。
なぜツイッターを例に挙げたか
上の項で、ツイッターを例に挙げた。
それには筆者なりの理由がある。
先にも書いたように、ツイッターはまるで情報が雪崩れ込んでくるような感覚をもたらす。
その感覚が故に、ツイッターで無限に時間を潰せるという話はオタクのみならず一般人からも聞かれるようになった。
だからこそツイッターを情報収集と捉えている人も居るし、新たな情報と出会えるチャンスと考える人も多い。
だが昨今、インターネットにおける無意識下のフィルタリングについて議論が交わされている。
その無意識下のフィルタリングの代表例がツイッターにおけるタイムラインの構成だ。
自分が話が合う人、興味ある人をフォローし繋がりが生まれる。
それはとても貴重なことだしツイッターを通してより楽しい生活を送れるようになったことは間違いない。
しかし一方で、思いも寄らない情報というランダム性に関しては圧倒的に不足していくのだ。
この問題を考えるとき、筆者の頭に浮かぶ物がある。
それが
「東急ハンズとAmazon」という二つだ。
Amazonを時間潰しに閲覧する、という人はおそらくそれほど多くない。
それは、検索システムが有効に機能するが故に欲しいものを的確に探し出すことが出来るからだ。
また大まかにジャンルを検索してそこから選んでいく、という方法も採ることが出来るがどちらにせよ根底にあるのは
「物が欲しい」
という自発的動機だ。
またAmazonの大きな特徴である
「お勧めの商品」
これも自分の趣味のものを買えば買うほど精度が上がる。
関連しているからこそ嬉しい面もあるのだが、閉じた世界で商品を探しているという事実は変わることがない。
インターネットにおけるショッピングや動画閲覧はこういったプラットフォーム側によりフィルタリングが強く作用する。
ゲームの動画を見ている人にはゲームの動画ばかりがおすすめされていく。
知見を深めていくという点にはプラスだが、世界を広げていくという点ではマイナスと言っても良いだろう。
それに対して時間潰しの大将、東急ハンズ。
Copyright© TOKYU HANDS INC.
あるいはここをヴィレッジヴァンガードに置き換えてもいい。
この両者、明確に欲しいものを求めて買い物に行くよりもふらっと覗きに行く方が楽しいと筆者は感じている。
そこには明らかな偶然性があるからだ。
こんなグッズがあったのか!とか、なんだこれ下らないなあと笑える商品とか、全く欲しいと思っていなかったのに興味を引かれる商品に出会える機会が多いと感じる。
自分の発想の遙か外から入ってくる刺激、それは知的好奇心を大きくくすぐる。
同様の理由で筆者はアナログな書店が大好きである。
表紙のデザイン、目を引くタイトル、そんなもの題材にする・・・?というようなニッチな新書。
欲しいと思うどころか存在自体を知らなかったものに心を惹かれそっと中身を覗いてみる。
その瞬間、頭がぐるぐる回り出すのを感じられるのだ。
そんな偶然に自分の世界が広がる経験の極み、それがWikipediaだ。
Wikipediaに秘められた可能性
かつて、こんなゲームが話題になった。
「Wikipediaは6回のリンクでどの記事にも行ける」という最短経路を自動探索する「うぃきったー」(外部サイト)
正確に言えば、この6回以内のリンクで目的の語句へ辿り着くというゲームだ。
このゲームやツールが成り立つのには、Wikipediaにある膨大な記事数と無数に張られたリンクが前提となる。
一例として、「サッカー」というページを引用してみよう。
起源
人類としての歴史が始まった頃から人類はある種のフットボールを行っていたと思われる[要出典]。新石器時代(紀元前約1万年前)の現中国地域の地層から石の球が発見され、中国マスコミはこれをサッカーの起源として報道したが、蹴った証拠は見つかっていない。南米ではアマゾンの熱帯雨林から天然ゴムが採取できた為、早くからボールを蹴る競技が行われていた。パタゴニアやアンデスのインディオ文明からは、様々なボール(もしくはそれに類するもの)や、ボールを蹴る競技の証拠が見つかっている(紀元前1500年チリのピリマタム、パタゴニアのチョエカ、紀元前800年メキシコのマヤ文明のポク・タ・ポク)[14]。
足でボールを蹴る遊戯は、考古学的には、古代エジプト、古代ギリシャ、古代ローマから足でボールを蹴る人物のレリーフが発見されている(紀元前200年古代ギリシャのエピスキロス、紀元前200年古代ローマのパルパツウム)[14]。中国では戦国時代に足で鞠を蹴りあう蹴鞠(しゅうきく)という遊戯が存在したことが、前漢末(紀元前1世紀)の「戦国策」に見える。
なお、FIFAのホームページでは最も古い形態のサッカーとして中国の蹴鞠を載せている[15]。2014年にFIFAのゼップ・ブラッター会長が中国の博物館に「中国はサッカー発祥の地」とする認定証をおくった際は物議を醸した[16][17]。
文献や出土遺物でなく、現代まで人により伝承されているものとしては、中国の蹴鞠(しゅうきく)が日本に伝わり、独自の発達を遂げた日本の平安京の「蹴鞠(けまり)」が最古である。
—Wikipediaより引用
上記の文章に含まれるリンクは実際にクリックして飛ぶことが出来る。
ぜひ実際に色々なリンクに触れてほしい。
サッカーという語句一つで、古代文明へと繋がっていく。
これがWikiprdiaの誇るローカルネットワークだ。
他にも「納豆」のページに「アンモニア」「ストイコビッチ」といった予測できないリンクがあったりと一般的な人間の発想のキャパシティを大きく超えた繋がりが展開されている。
少しでも興味の湧いた項目はクリックすればより詳細な情報が得られるし、飛んだ先のページでまた気になるページが出てくるかも知れない。
もしそのスパイラルに少しでもハマったら、それはWikipedia沼の始まりだ。
実際に筆者は、この沼のおかげで日本で発生した主要なヒグマによる被害を全て知ることとなった。
このように自分の発想や予想を超えた情報と出会えるランダム性。
それはSNSでは決して為し得ない、インターネットが誇る武器の一つなのだ。
フィルタリングについて考えること
例えば、ツイッターで政治的主張を繰り返すアカウント。
彼らは、政治的な視野がツイッターによって広がったと言えるだろうか。
彼らのフォローもフォロワーも、同じ主張をするものばかり。
主張して得られる賛同はいいねやRTで数字化されるし、反対意見はブロックすることで視界から取り除ける。
そうやって出来上がるのは、賛同者しか見えない空想とも言えるユートピアだ。
現実は何一つ変わらずとも、その手で作り上げたタイムラインが理想の形を成している。
これは極端な例だが、見たいものだけを見るという状態は意図せずとも起こってしまう。その可能性については認識しておくべきだろう。
例えば落合陽一はAmazonのお勧め欄に関して
「家族で共用にすると無知のジャンルを紹介されて面白い」
という話をしていた。
Youtubeでも同じことが起こるだろうし、プラットフォーム側がフィルタリングをする場合にはこのような解決方法がある。
ただ筆者はなにも、閉じたコミュニティを否定しているわけではない。
実際、実りのある議論をするには荒らしや野次馬を除外する必要はあるだろうし、趣味が合うコミュニティの形成はこういったフィルタを通さないと限りなく不可能に近い。
問題は、それを認識しているかどうかだ。
ツイッターは限定された世界だと認識して楽しむのか、これが世界の全てだと勘違いしてしまうのか。
その差はとても大きいだろう。
事実かどうかは分からないが、他人の考えを許容できない人が増えているとよく言われる。
共感は出来ないが理解は出来る、というような区分けが出来ないという。
原因の一端は、もしかしたらこのような「見たいものを見る」が可能になった発展の弊害なのかも知れない。
サッカー部にいたらサッカー好きな人に囲まれるが、世界にはサッカーをほぼ見ない人だって沢山居る。
そんな当たり前のことが見えなくなってしまう危険性。
それを認識する必要性は、SNSが加速している現代において極めて大きい。
だからこそ、SNSが何か窮屈だと思った人には是非Wikipediaをお勧めしたい。
無機質に羅列された数多のリンクは、我々に知らないものを知るという原始的快感を思い出させてくれるはずだ。
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